大迫勇也選手と言えば、森保ジャパンのエースとして期待されています。
そんな日本代表のエースが長らく活躍していたドイツ・ブンデスリーガから日本のJリーグに帰ってきたことで、サッカーファンの注目度がより上がっています。
そんな大迫選手はプロ入り前から対戦相手に「半端ない」という感想を抱かせるほど、飛び抜けた才能を持っていました。
今回は、大迫選手がプロになるまでの経歴について詳しく見ていきます。
大迫勇也のWiki風プロフィール
名前:大迫勇也(おおさこゆうや)
生年月日:1990年5月18日
年齢:31歳
出身地:鹿児島県加世田市(現・南さつま市)
小学校:加世田市立万世小学校
中学校:育英館中学校
高校:鹿児島城西高校
身長:182cm
体重:71kg
現所属チーム:ヴィッセル神戸
ポジション:FW
背番号:10
利き足:右
大迫勇也の幼少期
大迫選手は、鹿児島県加世田市3兄姉の真ん中として誕生しました。
3歳上のお兄さんと、4歳下の妹さんがいます。
小学生時代は、3人そろって同じ少年団に所属し、サッカーをしていました。
また、お父さんは野球をやっておられ、お母さんはバレーボールの選手でした。
生まれ故郷である鹿児島県加世田市は、大自然に囲まれた場所です。
大迫選手曰く、「家からコンビニに行くのも15分ほどかかる」そうです。
そんな環境で、大迫選手はのびのびとサッカーに打ち込んでいたんですね。
大迫選手がサッカーを始めたのは3歳の頃。
通っていた幼稚園に、幼児教育に力をいれる太陽スポーツクラブが巡回指導に来ることがあり、サッカーに興味を持ち始めました。
大迫勇也の小学生時代
小学生になった大迫勇也は、地元の加世田市立万世小学校に入学しました。
そして、小学校3年生時に地元の少年団である万世サッカースポーツ少年団(SSS)に入団しました。
当時の大迫選手はトップ下のポジションでプレーをしていました。
この少年団は総勢でも30人程度といった小規模チームで、活動は週に3回。
当時の鹿児島県では、日本サッカー界のレジェンド遠藤保仁選手を輩出した鹿児島市内、数名のプロサッカー選手を輩出した霧島市が強豪で、大迫選手の加世田市は県大会に出場さえできれば御の字だったようです。
そんな加世田市は現在南さつま市となり、鹿児島県大会どころか全国大会にまで出場するほどの「サッカーの街」になりました。
大先輩で日本代表選手である大迫選手という存在が子ども達の希望になっているのでしょうか。
万世サッカースポーツ少年団で大迫選手等を指導していたのは永野高茂監督です。
永野監督は、当時の大迫選手を「負けず嫌いで、大人にも果敢に立ち向かっていた。」と話しています。
なんでも、少年団OBの中高生や、当時20代だった永野監督相手に、小学生の大迫選手が1対1を仕掛けていたとか。
小学生と中学生以上だとかなりの体格差がありますが、大迫選手は全くひるむことなく挑戦していました。
永野監督が子ども達に意識して指導していたことは、ボールを止める・蹴る技術の他に、「自分でアクションを起こすこと」でした。
つまり、他のチームメイトが何か仕掛けるのを待つのではなく、自分で考えてプレーをするよう、子ども達にに教えていたということですね。
少年団の試合後は、各々が反省できるように必ず1ページ以上のサッカーノートを書かせていたようですが、大迫選手は真面目に自身の反省を書き込んでいたと監督は語ります。
格上に見える相手にも果敢に挑んでいく姿と、試合ごとに反省点見つけ次回までに改善するよう努める姿は、今の大迫選手からも見て取れますよね。
大迫勇也の中学生時代
大迫選手が通っていた中学校は日置市の鹿児島育英館中学校です。
この育英館中は、大迫選手の代から体育コースができました。
そんな中で、大迫選手が所属する万世サッカースポーツ少年団にセレクションの案内が届きました。
セレクションの案内を受けた大迫選手は、挑戦を決意し、見事合格しました。
審査する側にいた育英館中の提携校である鹿児島城西の小久保監督は、大迫選手のプレーに鮮烈な印象を受けました。
大迫選手の身体を使って相手選手からボールをキープするプレーに心惹かれたと言います。
セレクションをくぐり抜け、育英館中学校に入学した大迫選手は、毎日片道1時間をかけて学校に通いました。
練習は週5回で土日も休みのないハードな環境の中、大迫選手は練習に励みます。
1年生当時、身長160cmと大柄ではなかった大迫選手は特別上手な選手ではありませんでした。
しかし、FWに転向し、身長が一気に伸びた2・3年生の時にサッカーの実力も一気に成長しました。
当時体育コースでサッカーを教えていた山平監督は、よく全体練習後に大迫選手を誘い、1対1の練習をしていました。
これは、大迫選手の闘争心をかき立てるための練習です。
「かかってこい」という山平監督の言葉に、大迫選手は闘争心をむき出しにして食らいついていきました。
ここでも、大迫選手の1対1での負けん気が垣間見ることができますね。
この負けん気こそ、日本代表の前線で常に相手との1対1に挑んでいく大迫選手の持ち味です。
山平監督に鍛えられた大迫選手は育英館中学校の絶対的エースに。
大迫選手が3年生になると、県大会で優勝し、九州大会まで出場しました。
その姿が認められ、城福浩監督率いるU-15日本代表候補に初招集され、プロを本気で目指し始めました。
大迫勇也の高校生時代
大迫選手の高校は、中学時代に通っていた育英館中学校の提携校である鹿児島城西高校です。
鹿児島城西高校にはハイレベルな選手が多く集まっていましたが、大迫選手は1年の高校総体県予選からベンチ入りを果たしました。
技術の高さに加え、180cmを超える身長が監督の起用理由です。
高校時代も順調にサッカー人生を歩んでいた大迫選手ですが、ここで大きな挫折に出会います。
それは、高校2年生の時、2007年U-17ワールドカップ直前で最終メンバー落ちをしたことです。
当時のメンバーには柿谷曜一朗、齋藤学、大塚翔平といったJリーグの下部組織所属のFWが多数を占めていました。
高校生の大迫選手にとって、このことはかなりショックだったと思います。
しかし、大迫選手はこの機会に自分を見つめ直すことにしました。
高校2年生まで自分1人でボールをゴールまで持って行くことが多かった大迫選手ですが、次第に味方の選手にボールを回すようになりました。
これは、当時の小久保監督に「周りを使え」と頻繁に指摘されていたからです。
U-17の代表メンバーに入ることができなかった大迫選手ですが、これをきっかけにゴールもアシストもできる選手に成長しました。
そして、2009年の高校選手権で1大会10ゴールという新記録を樹立。
ちなみに、アシストも10を記録しています。
惜しくも決勝で広島皆実に敗れるも、大迫選手の名前は日本中に広まりました。
高校選手権での大活躍により、なんとJリーグの6クラブからオファーを受けた大迫選手。
その中でも、当時Jリーグを2連覇していた鹿島アントラーズへの入団を決め、常勝軍団への仲間入りを果たしました。
まとめ
今回は、大迫選手の幼少期~高校時代、プロ入団までのサッカー人生をまとめてみました。
今では日本代表のエースとしてチームを引っ張る大迫選手ですが、高校時代に日本代表落ちをしたという挫折経験も持っています。
そんな挫折経験を糧に、自分のスキルを磨き続けた結果、当時のライバル達よりも大活躍を果たしています。
2022年ワールドカップでも、1対1での勝負強さを活かし、ゴールとアシストを量産してほしいですね。